斎藤道三

斎藤道三

斎藤 道三(さいとう どうさん)は、戦国時代の美濃(岐阜県南部)の武将・戦国大名である。

名は西村勘九郎をはじめ、様々な変名がある。有名な道三は号である。
父は長井豊後守(西村新左衛門尉)。近年の研究では、美濃の国盗りは道三1代によるものではなく、その父である長井豊後守が基礎を築き上げていたという説もある。
子に義龍、利尭、孫四郎、喜平治、長龍。弟・長井道利は道三が若い頃の子であるともされる。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(織田信長正室)など。

生涯

前半生
明応3年(1494年)、山城西ノ岡で生まれたとされているが、生年・誕生地には諸説あって定かではない。

近年紹介された『春日文書』では、油売りから日蓮宗妙覚寺の僧・西村姓を得て武士になるまでの道三の前半生は、道三の父の長井新左衛門尉(長井豊後守)のことであり、道三の下克上は親子2代にわたる出来事であったとされている。また『美濃国雑話記』に記されている京都御所北面の武士、松波基宗の子で妙覚寺に弟子入りした峰丸(法蓮坊)は、道三の父とされている。

長井豊後守および斎藤道三について価値の高い資料である『六角承禎条書写』によると、京都妙覚寺の僧であった父・西村新左衛門尉が美濃守護の土岐氏の重臣・長井氏に仕え、やがて長井家の後継となり長井豊後守と名乗った。さらに長井豊後守は美濃守護・土岐政頼を追放し、弟の土岐頼芸を守護に立てた。これらの父が得た権力は、長井豊後守の子・長井規秀すなわち斎藤道三に受け継がれた。

美濃乗っ取り
長井規秀は弁舌に優れ、京風文化にも通じていたことから、土岐頼芸の寵愛を受け、たちまち土岐家の中でも最有力の重臣となった。天文7年(1538年)に美濃の守護代・斎藤利良が病死したため、その名跡を継いで斎藤利政、後に秀龍と名乗った。天文8年(1539年)には稲葉山城の大改築を行なった。

天文10年(1541年)、土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺したことから頼芸と対立・抗争を開始する。一時は追いつめられたこともあったが、天文11年(1542年)に大反攻に出て、大桑城を攻めて土岐次郎(頼芸の子)、頼芸を追放して、事実上の美濃国主となったとされている。ただし、近年では尾張国に追放されたのは次郎であって、頼芸はこの段階では美濃に留まって傀儡の守護としてその地位を保っていたとする異説もある。しかし頼芸(異説によれば次郎)は織田信秀を、そして先に追放されていた政頼は朝倉孝景を頼って落ち延びていたことから、道三は両者の美濃復帰を大義名分として侵攻してきた朝倉・織田連合軍の侵攻を受けることとなる。天文16年(1547年)には織田信秀による大規模な稲葉山城攻めを受けるが、道三は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ。しかし、朝倉・織田という両雄を敵に回す不利を悟った道三は、織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の濃姫(帰蝶)を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせている。

この和睦により、織田家の後援を受けて道三に反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、さらに美濃に復帰していた土岐頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張に追放し、美濃を完全に平定した。

最期
天文23年(1554年)、道三は家督を子の斎藤義龍に譲って、剃髪して鷺山城に隠居した。しかし道三は義龍より、その弟である龍重や龍定を偏愛するようになり、遂には義龍の廃嫡を考えるようになる(一説には、義龍は道三の実子ではなく、土岐頼芸の実子だったが、道三は美濃支配で土岐家の名分を利用するために、義龍を自らの実子にしていたとされる)。

このため、道三と義龍は不和となり、弘治元年(1555年)に義龍は弟たちを殺害して道三に対し、挙兵する。国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、弘治2年(1556年)4月の長良川の戦いで義龍軍と戦い、娘婿・信長の援兵が間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。享年63。